黄金の歴史―奥州藤原氏と平泉

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黄金の歴史 奥州藤原氏と平泉

平泉と聞いて真っ先に思い浮かぶのは、黄金に輝く「中尊寺金色堂」ではないでしょうか。

2011年には世界遺産に登録され、世界に広く知れ渡ることになる平泉ですが、実は国内では古くから観光スポットとして有名で、マルコ・ポーロの東方見聞録にもその黄金の輝きが記され、「ジパング(黄金の国)」の名はそこから来たとも言われています。

中学や高校の教科書にも載っており、誰もが知る平泉ですが、どのようにして都市や文化が形成されていったのか、なぜ「中尊寺金色堂」が建立されたのかなどを説明できるという方は意外と少ないのではないでしょうか。
観光に行く前にその土地の歴史や建物の由縁を知ることで、何倍も観光が楽しくなります。

本記事では、平泉の黄金の歴史と、それを築いた奥州藤原氏について解説していきたいと思います。

奥州藤原氏とは?

まずは、奥州藤原氏がどのような経緯で平泉を治めるに至ったのかについて見ていきましょう。

時代は平安時代末期、現在の東北地方で「前九年の役」「後三年の役」と呼ばれる大きな争いが起きます。

「前九年の役」とは、東北地方で当時大きな権力を握っていた安部氏とそれを抑えようとする朝廷による争いです。
この戦で奥州藤原氏の祖である清衡の父・経清は敗北した安部氏側についてしまったため処刑されてしまいますが、清衡は母が朝廷側の清原氏と再婚したことから生き延びることが出来ました。

それから約20年後に起きた清原氏のお家騒動である「後三年の役」に巻き込まれた清衡は、辛くも生き残りますが、その戦いは肉親同士で殺し合う凄惨なものでした。
「後三年の役」で滅亡した清原氏に代わり領地を治めることとなった清衡は、政治の中心となる館を平泉に移します。

平泉と奥州藤原氏の盛衰

奥州藤原氏が平泉の地を治めたのは、わずかに100年足らずの短い期間でしたが、その間3代にわたって平泉の黄金の歴史を築きました。
この項では、それぞれの代ごとに、平泉や奥州藤原氏を巡る出来事について見ていきたいと思います。

清衡(初代)

平泉に館を移した清衡は、「前九年の役」「後三年の役」という2つの大きな争いを経験したことから、仏教による平和な国づくりを宣言する「中尊寺建立供養願文」を書き、中尊寺を建立しました。

中尊寺は金色堂が有名ですが、そのほかにも多くの伽藍や塔頭を造立し、その数は寺塔40余宇、禅坊300余宇にも及びます。

中尊寺を建てるにあたって、清衡は京からさまざまな分野のスペシャリストを呼び寄せ、当時最高峰の技術を中尊寺につぎ込みました。
なかでも「紺紙金銀字交書一切経」は紺紙に金と銀で交互に写経され、仏画なども書き込まれたもので、すべてが中尊寺に残っているわけではありませんが、資料の貴重性と高い技術力は必見です。

金色堂完成の2年後に清衡は入滅、遺体は金色堂に安置されました。

基衡(2代目)

清衡の子・基衡も父の遺志を引き継いで仏教に基づいた平和な国づくりを進めていきます。
基衡の代にはすでに奥州藤原氏は交易や金の採掘により、かなりの富を得ていたと考えられ、それらを投じて毛越寺を作り始めます。

毛越寺も中尊寺に負けず劣らず荘厳なもので、本堂・「金堂円隆寺」などは後世の歴史書「吾妻鏡」にも「吾朝無双(他に類を見ないほど立派なお寺であるという意味)」と記されるほど素晴らしいものであったようです。

基衡は毛越寺の完成を見ることなく息を引き取ります。

秀衡(3代目)

3代目の秀衡は、まさに平泉が栄華を極めた時代の当主です。
秀衡は父・基衡が着手した毛越寺を完成させると、京・宇治の平等院鳳凰堂モデルとした無量光院を建立します。

秀衡は父や祖父の「押領使」よりも上の役職である「鎮守府将軍」、さらには「陸奥守」を賜ります。
このころには平泉は京に次ぐ国内で2番目の都市となり、名実ともに東北地方の覇者となったのです。

秀衡は晩年、兄・頼朝の追手から逃れてきた源義経を匿い、我が子のようにかわいがったとも言われています。
頼朝からの引き渡しの要請に応じなかったことから、やはりこの頃の奥州藤原氏の影響力は頼朝も無視できないほどであったことがわかるかと思います。

奥州藤原氏の滅亡

秀衡の死後、跡を継いだ泰衡は頼朝の圧力に耐えかねて義経を自害に追い込んでしまいます。
秀衡自身も頼朝に攻め込まれて逃亡しますが、家来に殺害され、ここに奥州藤原氏は滅亡します。

平泉の観光スポット

さいごに、この記事で解説した奥州藤原氏とかかわりの深い平泉の観光スポットを軽く紹介しておきます。

中尊寺

平泉の定番観光スポット・金色堂を含む中尊寺は、数多くの史跡が残り、見ごたえのある寺院です。
黄金に囲まれた空間は、権勢を誇った奥州藤原氏の財力とともに、極楽浄土への強い願いも感じることができます。

柳之御所・平泉遺跡群

柳之御所・平泉遺跡群は、清衡と基衡が平泉の地を治めた政の中心である「平泉館」の跡であると言われています。
陶器や金属などの生活の痕跡だけでなく、呪符や書物など儀式に関する出土もあり、歴史が大きい場所です。

毛越寺

基衡と秀衡が建立した毛越寺は、残念ながら「吾朝無双」と呼ばれた「金堂円隆寺」こそ現存していませんが、松尾芭蕉の「夏草や兵共が夢の跡」の句碑やそれを新渡戸稲造が英訳した句碑という珍しいものも見ることができます。

旧観自在王院庭園

毛越寺の隣にある観自在王院は、基衡の妻が立てたもので、後の一揆で伽藍などが焼失したため、現在は公園になっています。

無量光院跡

秀衡が建立した無量光院も伽藍が焼失してしまっていますが、現在も遺跡として残っています。

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