戊辰戦争のクライマックス―会津戦争と鶴ヶ城(会津若松城・黒川城)

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戊辰戦争のクライマックス 会津戦争と鶴ヶ城

戊辰戦争のクライマックスとして、数多くの逸話が残る会津戦争。
鶴ヶ城はその舞台となったお城です。

残念ながら建物の多くは戊辰戦争後に解体されてしまいますが、天守は鉄筋コンクリートで復元され、内部は郷土史博物館になっており、会津藩の変遷についてわかりやすく解説されています。

本記事では、鶴ヶ城の歴史や、会津戦争での鶴ヶ城について見ていきましょう。

なお、全国的には史跡登録名である「若松城」や、北九州にある同名のお城との混同を避けるための名称である「会津若松城」の名で知られていますが、本記事では地元で親しまれている「鶴ヶ城」で通すこととします。

戦国時代までの鶴ヶ城

鶴ヶ城は、至徳元年(1384年)に蘆名直盛(あしななおもり)が東黒川館を置いたことが始まりであるとされています。
直盛は源頼朝から会津の地を賜った佐原義連(さはらよしつら)の直系の子孫です。
その後、16代目・盛氏(もりうじ)の代には勢力を拡大し、南奥州の最大勢力となったこの館はやがて黒川城の名で知られていくこととなります。

しかし、蘆名氏の中で内紛が勃発したことをきっかけに伊達政宗に攻め込まれ、天正17年(1589年)、会津は伊達氏の手中に収められます。

その後、豊臣秀吉による「会津仕置」で政宗は岩手山城に追いやられ、会津には織田信長の娘婿でもある蒲生氏郷が入りました。
この氏郷が、現在の鶴ヶ城一帯の基礎を作ったと言っても過言ではありません。

氏郷は総構え(城下町も含めて堀で囲うお城の構造のこと。戦国時代末期においては最先端の構造で、籠城に強い)を築き、文禄2年(1593年)七層もの高い天守を建てたそうです。
天守が完成した時点で、氏郷は故郷近江の若松(現在の滋賀県日野町)にちなみ、黒川の地を若松と改名します。

氏郷はそれからわずか2年後に肥前名護屋城で死去、遺髪は鶴ヶ城下の興徳寺に葬られました。
氏郷の子・秀行(ひでゆき)が13歳の若さで家を継ぐも宇都宮に転封、その後は越後の上杉景勝が会津を治めますが、関ヶ原の戦いのあと米沢へと転封となり、再び蒲生秀行が会津に入ります。

江戸時代の鶴ヶ城

江戸時代に入り、会津は上杉氏から再び蒲生氏に渡りますが、その数年後に大きな地震が起こります。
慶長16年(1611年)の会津地震では3700人余りが亡くなりました。

その心労がたたったのか、秀行は翌年に30歳の若さでこの世を去ります。
秀行の息子・忠郷は当時まだ10歳。
自ら為政者となるにはあまりに幼く、家中では重臣たちの間で衝突が絶えなくなります。

忠郷が疱瘡(ほうそう。天然痘のこと)で亡くなると家督は弟・忠知(ただとも)が継ぎますが、蒲生氏は松山に転封、数年後に忠知が病死し、蒲生氏は滅亡します。

会津には入れ替わりで加藤嘉明(よしあき)が入りました。
築城の名手・嘉明とその息子明成(あきなり)は、領内を整備し、会津地震の被害を受け傾いていた天守を現在の五層の天守に改修、出丸などを増築し、現在の鶴ヶ城が完成。

しかし、天守の落成と同じ寛永16年(1639)にいわゆる「会津騒動」と呼ばれるお家騒動が起こり、加藤家は領地を召し上げられます。
会津には二代将軍・徳川秀忠の子である保科正之が入り、以後会津藩は徳川親藩として戊辰戦争時に降伏するその瞬間まで徳川将軍家を支え続けました。

会津戦争と鶴ヶ城

さて、時代は進んで幕末。
京で勃発した「鳥羽伏見の戦い」を皮切りに始まった戊辰戦争は、江戸城無血開城を経てもなお北上し続け、舞台はいよいよ会津へと移ります。

京都守護職を預かり、尊王攘夷派の志士たちを厳しく取り締まっていた会津藩主・松平容保は、当初は江戸城無血開城に伴い明治新政府に従おうとするも、新政府軍側が強硬に会津に攻め入ろうとすることを受けて徹底抗戦することにしました。

会津戦争は白河城の攻防戦で幕を開けます。
白河城では土方歳三をはじめとする新撰組などが応戦するも、新政府軍による圧倒的な重火器の力に翻弄され、とうとう主戦場は鶴ヶ城へ。

築城の名手・加藤嘉明が築城した鶴ヶ城は一か月もの間籠城戦に耐えますが、度重なる砲撃と食料や弾薬の枯渇により降伏し、会津戦争は終結しました。
会津戦争は凄惨さを極め、城内は死者負傷者で溢れ返り、年少者や婦女子が戦闘に参加し、少年兵や白虎隊が城下の邸宅で自決するなど、想像を絶するようなエピソードが数多く残っています。

明治に入り鶴ヶ城のすべての建物が壊されてしまいますが、太平洋戦争後に天守が再建され、現在は茶室や隅櫓も再建されています。

会津城下を観光するならレンタサイクルがおすすめ!

ここまで、鶴ヶ城の歴史と会津戦争について簡単に解説していきました。

鶴ヶ城下は路地が入り組んでいるため、観光の際はレンタサイクルを利用するのがおすすめです。
戊辰戦争や新撰組ゆかりの地を巡るも良し、城下の寺社仏閣を巡るも良し、酒蔵を巡って地酒を堪能するも良し。

総構えの名残はもうそれほどありませんが、蒲生氏郷の時代の石垣や土塁も城下に残っているので、ぜひ見つけてみてください。

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