函館の市街地にある五稜郭。
道内屈指の桜の名所として知られ、ゴールデンウイークには地元住民や観光客でごった返します。
函館観光の際には外せないスポットですが、なんとなく「戊辰戦争とか新撰組とかが関連しているのかな」という印象を持っているに過ぎないという方もいらっしゃるかもしれません。
歴史的観光名所に立ち寄る前に少し背景情報を頭に入れておくと、観光をより楽しむことができるでしょう。
戊辰戦争や城郭の話はそう単純なことではありませんが、すでに訪れたことがあるという方も、これから訪れるつもりであるという方も、この記事を読んで少しでも五稜郭について理解を深めていただければと思います。
五稜郭の歩み
まずは、戊辰戦争までの五稜郭の歩みについて見ていきたいと思います。
五稜郭が築城されたのは慶応2年(1866年)、幕府崩壊の2年前にできたお城ですから、その新しさがわかるかと思います。
中学校や高校で習った知識が記憶にあるという方のなかには「新しくお城を作っても良いの?」と疑問に思うかもしれませんが、五稜郭は開国以降国防を固めるために幕府が造ったお城のひとつです。
箱館(今の函館。ややこしいですが本記事では当時の表記に準ずることとします)は日本がアメリカとの条約を皮切りに初めて世界に開いた港のひとつです。
さらに海を挟んだ隣国のロシアとの国境に位置し、国防の観点からも大変重要な地でした。
北の守りの要となるよう建設されたのが五稜郭だったのです。
大政奉還後にはそれまで五稜郭を管理していた箱館奉行に代わり、新政府が箱館府を設置。
そしていよいよ戊辰戦争が勃発します。
戊辰戦争についてわかりやすく!
五稜郭は箱館戦争の舞台となったことで有名ですが、箱館戦争を理解するにはそれを含む一連の争いである戊辰戦争についての知識が少し必要です。
戊辰戦争は、大政奉還後、京都での「鳥羽・伏見の戦い」によって幕を開けます。
度重なる敗戦、江戸城無血開城、奥羽列藩同盟の崩壊、さらには会津藩の降伏と、旧幕府軍にはこれ以上戦いを続ける理由がないような気がしますが(主君である徳川慶喜が新政府に教順氏、最後の味方ともいえる会津藩が降伏したため)、榎本武揚や新撰組隊士をはじめとする旧幕府軍は、幕府が所有していた軍艦である開陽丸に乗って北海道まで移動し、独立国である蝦夷共和国を創設しました。
新政府軍が管理していた松前城や五稜郭を手に入れると、旧幕府軍は五稜郭を機能の中心とします。
拠点も手に入れ、軍艦を所有していることもあり海戦の備えもできていると思われていましたが、頼みの綱であった開陽丸が座礁、新政府軍の船を奪おうと宮古湾海戦に挑みますが敗戦し、ついに新政府軍は北海道に上陸してしまいます。
箱館戦争と五稜郭
戊辰戦争のなかでも、旧幕府軍が新政府軍の拠点を攻略し、蝦夷共和国を創設するあたりからの戦いを特に箱館戦争と呼んでいます。
新政府軍が北海道に上陸すると、いよいよ五稜郭が戦いの舞台となります。
旧幕府軍は何とか五稜郭を死守しようと、矢不来や二股口で必死の防戦を繰り広げますが、ここでも敗戦を重ね、五稜郭の方まで押しやられてしまいます。
西洋式の城郭を持つ五稜郭に籠城すればある程度凌ぐことができると思われていましたが、16世紀に開発された星形の稜堡(りょうほ)式城郭はすでに古く、旧幕府軍は壊滅的な状態になります。
新選組副長である土方歳三をはじめ、多くの犠牲者が出ました。
そんななか、榎本武揚は自刃して降伏しようとしますが、旧幕臣の大塚霍之丞(おおつかかくのじょう)が刃を手で握って諫めたというのは有名な話です。
こうして蝦夷共和国は新政府軍に降伏し、新政府軍と旧幕府軍の衝突である戊辰戦争の一連の戦いも終結します。
日本では珍しい「稜堡式城郭」
五稜郭が案外あっさりと攻略されてしまった背景には、先ほども少し触れましたが、五稜郭の特徴的な星形の城郭である稜堡式城郭が近代戦には対応していない古い形式のものであったことが考えられます。
この星形の城郭は、城内から見たときに死角がなく、また両サイドから砲撃を浴びせることで命中率を上げる十字砲火を得意としており、建物が低く、的となるような場所もないことから外部からの攻撃にも強いように見えます。
しかし、それは大砲の技術が著しく発展した19世紀には通用しません。
射程距離も威力も格段に上がった当時の最新式の大砲を所有する新政府軍の海からの砲撃は五稜郭内にも届いてしまいます。
急に開国することとなり、急いで北の備えを作らなければならず慌てていたからなのか、当時の蘭学者の武器に関する知識が大坂の陣あたりで止まっていたからなのかはわかりませんが、五稜郭が近代戦に不向きな城郭であるということは、皮肉なことに旧幕臣たちの終焉の地、箱館戦争で立証されることとなりました。