太平洋戦争時に、国内で唯一地上戦が行われ、一般市民にも多くの犠牲者を出した沖縄県。
終戦後も27年間アメリカに占領され、今も国内の米軍基地の実に7割が集中しているのが現状です。
沖縄県内には、壮絶な戦争の傷跡が残された場所や、戦時の資料を展示し平和を祈る施設が多くあり、戦争の残酷さと平和の尊さを今に伝えています。
本記事では、平和祈念公園やひめゆりの塔を中心に、沖縄戦と平和について考えていきたいと思います。
凄惨な沖縄戦の記憶
まずは、沖縄戦がどのようなものであったのかについてできる限りわかりやすく解説していこうと思います。
沖縄戦は、太平洋戦争末期の1945年3月に米軍が慶良間諸島へ上陸したことに始まります。
4月には本島に上陸し、南部を中心に激戦が繰り広げられ、民間も含め多くの犠牲が出ました。
「ガマ」と呼ばれる鍾乳洞は戦時の際、軍の陣地、倉庫、民間の避難先、病院として利用され、読谷村の「チビチリガマ」の集団自決のような悲劇も伝えられています。
地元の学生たちまでもが戦地に駆り出されたほか、圧倒的な物量を誇る米軍の無差別な砲撃も民衆を襲ったそうです。
爆弾の一部は不発弾となって地中に残り、戦後も人々の生活を脅かしました。
北部の山中に逃げ延びた人々や八重山島の人々も、多くが飢餓やマラリアで命を落としています。
このような沖縄戦の凄惨な記憶は人々によって語り継がれ、沖縄では今も沖縄戦終戦に当たる6月23日は慰霊の日とされ、県民の休日となっています。
戦争経験者が高齢化してゆくなかで、戦後生まれの若い世代にも語り部の活動が受け継がれ、平和への想いを次世代に繋いでいます。
平和祈念公園・平和祈念資料館
「沖縄戦終焉の地」とされている糸満市摩文につくられた平和祈念公園。
美しい海岸線を望む園内には、全ての犠牲者の名前を刻んだ「平和の礎」、平和への祈りが込められた「平和祈念像」、国立沖縄戦没者墓苑、慰霊塔があります。
戦争や平和に関する式典が行われているほか、休日には親子連れをはじめ多くの人々が訪れる市民の憩いの場にもなっているそうです。
敷地内にある平和祈念資料館では、戦前・戦中・戦後の沖縄の様子が詳しく解説されています。
戦前の沖縄の様子からはじまり、凄惨な沖縄での戦闘、アメリカ占領下での沖縄のまち、復帰運動、本土復帰など、近代の沖縄に関するさまざまな資料が展示されています。
沖縄戦への理解を深め、平和への想いを強くすることができる施設です。
ひめゆりの塔・ひめゆり平和祈念資料館
沖縄師範学校女子部・沖縄県立第一高等女学校の女学生たちが、看護要員「ひめゆり学徒隊」として動員され、戦争に巻き込まれていった歴史を今に伝えるひめゆりの塔。
多くの人が犠牲になった「伊原第三外科壕跡」の近くに建てられた慰霊碑です。
実際に動員された生存者を含む「ひめゆり同窓会」によってつくられたひめゆり平和祈念資料館では、女学生たちが体験したあまりにも悲惨な記憶を物語る資料が展示されています。
「戦争からさらに遠くなった世代へ」と題された展示では彼女たちの生活や陸軍の病院壕のわかりやすい解説や再現がなされており、より戦争を身近なものとして捉えて深く理解できるようになっています。
そのほかの沖縄戦に関する記念館・スポット
さいごに、上記で紹介した2つの施設以外にもぜひ訪れていただきたい沖縄戦に関する記念館やスポットをいくつかご紹介したいと思います。
対馬丸記念館
那覇空港のそばにある観光スポット「波の上ビーチ」のすぐ近くにある対馬丸記念館。
対馬丸とは、終戦の1年ほど前に九州へ学童疎開しようとしていた船のことです。
対馬丸は出航の翌日に米軍の潜水艦「ボーフィン号」に魚雷攻撃され、沈没。
乗船者約1800名の内、子どもたちを含む1484名もの人々が犠牲になりました。
対馬丸記念館では、犠牲者の遺品や生存者の証言が展示されており、戦争によって子供が犠牲になったという現実を生々しく今に伝えています。
旧海軍司令部壕
民間人の被害が大きくクローズアップされることの多い沖縄戦ですが、もちろん多くの兵士も犠牲になっています。
旧海軍司令部壕は、4000人もの海軍兵士たちが悲惨な最期を遂げており、当時のままで保存されている貴重な戦争遺跡です。
壕の中には、自決時の手榴弾の跡などが生々しく残されており、当時の兵士たちの状況を肌で感じることができます。
併設資料館では沖縄戦や海軍に関する展示がなされているので、あわせて訪れてみてください。
糸数アブチラガマ(糸数壕)
先ほども触れた自然洞窟「ガマ」のひとつで、糸数アブチラガマは軍の陣地や周辺住民の壕として使われ、戦場が南下すると「南風原陸軍病院」の分室として利用されていました。
ガイドさんの丁寧な説明とともに、当時のガマの様子やひめゆり学徒隊の悲惨な状況をリアルに感じながら深く理解することができます。