長きにわたり鎖国政策を敷いていた日本。
海外との交流は必要最低限に抑えられており、その数少ない窓口のひとつが長崎でした。
戦国時代からヨーロッパとの繋がりが深かった長崎からは、今の私たちの生活に当たり前のように浸透している西洋文化の多くが取り入れられ、全国各地に広められてゆきました。
本記事では、長崎貿易の中心であった出島の歴史や見どころについてご紹介していきたいと思います。
西洋への唯一の玄関口であった扇形の島
日本史の教科書などにも掲載されている出島。
わずか1.5ヘクタールほどの扇型の人工島でした。
現在は埋め立てられており、島にも扇形にも見えませんが、かつて敷地であったところの一部には当時の街並みが再現され、博物館のようになっています。
さまざまな理由から西洋との交流を限定する政策に舵を切った江戸幕府は、交易を行う西洋国をオランダに限定し、その窓口を長崎の出島のみに定めました。
平戸にあったオランダ商館が移転してから日本が開国するまでのおよそ200年に渡って、西洋との唯一の交点であった長崎のまち。
そこからもたらされた西洋文化、砂糖、洋書は、人々の暮らし、食文化、学術研究に大きな影響を与えました。
ここでは、知っていれば長崎観光がもっと楽しくなるような、長崎貿易に関する基本知識をご紹介していきたいと思います。
長崎貿易とは?
ではまず、長崎貿易とはどのようなものであるかについて簡単に解説していきたいと思います。
日本と西洋とのファーストコンタクトとされているのは、室町時代末期、種子島に漂着したポルトガル人が我が国に鉄砲を伝えたときのことであると言われています。
種子島から伝わった鉄砲は全国に広がり、刀鍛冶たちの手によって国産化に成功しました。
戦国時代末期には日本は世界最大級の鉄砲保有国になっていたそうです。
その後、平戸にも商船などが出入りするようになり、やがて長崎の港も開かれます。
日本に西洋文明をもたらしたポルトガルは、さまざまな知識や品物とともに、キリスト教を広めます。
当時日本では急激にキリシタンが増え、特に九州では熱心な信者が多く、天正遣欧少年使節が長崎から出発しました。
秀吉、家康と天下人が相次いでキリスト教を弾圧すると、「26聖人殉教事件」などの悲劇が起こります。
日本でのキリスト教弾圧がこれほど厳しかった理由はさまざま考えられますが、一説にはキリスト教を通じて日本の内政に干渉することを恐れたのではないかとも言われています。
宣教師を警戒した徳川幕府は、イエズス会をはじめとするポルトガル船の来航を禁止し、キリスト教を広めないことを条件にオランダに絞って西洋との交易を続けました。
イギリスが日本との貿易から撤退すると、幕府はオランダ商館を平戸から長崎・出島に移転。
出島は以降200年に渡って唯一の西洋への窓口の役割を果たします。
明治時代に入ってからも外国人の居留地などが設けられ、西洋文明が身近にあった長崎はまさに日本の玄関口です。
さまざまな国の人々が出入りするようになっても長崎の人々からするとヨーロッパ人と言えばオランダ人というイメージがあったらしく、居留地付近には「オランダ坂」と呼ばれる坂がいくつもあり、現在も地元の人々の生活道路として使われています。
出島観光の見どころ
ではさいごに、オランダ商館があったころの出島のまちを再現した観光スポット「出島和蘭商館跡」の見どころについてご紹介していきたいと思います。
表門橋
対岸の江戸町側から架けられた表門に続く橋。
当時はここに「探番(さぐりばん)」と呼ばれる役職の者が立っており、人の出入りを見張っていました。
水門
オランダからもたらされた西洋の文化、品物、書籍などが日本にもたらされ、また日本が世界へ向けて品々を送り出した門です。
南側が輸入用、北側が輸出用でした。
蔵
砂糖や染料など、輸入品が収められていた蔵が再現されたもの。
なかでは日蘭貿易の輸入品・輸出品に関する展示や、発掘調査で見つかった礎石などを見ることができます。
オランダ人の居住空間
日本に滞在するオランダ人たちが暮らした出島。
オランダ人たちの居館も一見和風な造りに見えますが、ところどころに西洋建築の要素が入った長崎らしい佇まいです。
出島の歴史やそこに暮らしたオランダ人たちの生活の様子に関する展示も行われています。
役人たちの詰所
出島に出入りしていたのはオランダ人だけではありません。
長崎貿易の事務や管理を担当した「長崎乙名(ながさきおとな)」やそれを補佐する役人たちの詰め所も再現されています。
オランダ人と日本人の役人の交流ももちろんあったそうで、彼らが食べていた西洋料理をお土産として持ち帰ることもあったそうです。
幕末期の建物
敷地内には、幕末の商社の石倉なども再現されています。
考古資料などが展示されているほか、総合案内所なども兼ねています。
洋風建築
明治期の洋風建築の復元もなされています。
レストランとして活用されている「旧長崎内外クラブ」や、「旧出島神学校」を見ることができます。