歴史の教科書などにも掲載されている佐賀県の吉野ケ里遺跡。
国内最大級の弥生時代の遺跡で、出土品などからも相当な規模の集落であったことがうかがえます。
史跡的価値が相当なものであるのはもちろん、敷地内では復元建物や出土品の展示・解説も行われており、幅広い世代で観光を楽しむことができるようになっている施設です。
本記事では、吉野ケ里遺跡についてわかりやすく解説していきたいと思います。
吉野ケ里遺跡とは?
佐賀県神埼郡の旧神埼(かんざき)町、旧三田川(みたがわ)町、旧東脊振(ひがしせふり)村の3つの町村にまたがった巨大な遺跡である吉野ケ里遺跡。
出土品などから、紀元前5~紀元後3世紀までの約700年間にわたって続いた弥生時代のものであると考えられています。
教科書にも掲載されているほど広く知られている吉野ケ里遺跡は、当時の人々の生活を体験プログラムなどを通じて楽しく学ぶことができるのも魅力のひとつ。
レストランや遊具がある広場なども併設されており、家族で1日中楽しむことができる観光スポットになっています。
ここでは、吉野ケ里遺跡や弥生時代について基本的な予備知識をご紹介し、その見どころなどに迫っていきたいと思います。
弥生時代の稲作・定住
まずは、吉野ケ里遺跡で大規模な集落があったとされる弥生時代とはどのような時代なのか、また稲作や定住が人々の生活にどのような影響を及ぼしたのかについて簡単に見ていきましょう。
稲作が広まっていくと、徐々に人々は集団を形成して生活をはじめます。
この集団を「ムラ」と呼び、弥生時代前期あたり(紀元前5~前2世紀)までこの傾向が続いていたとみられています。
やがて弥生時代中期あたり(紀元前2~紀元1世紀)に入るころには、「ムラ」同士が集まり、「クニ」を形成していたようです。
「クニ」の首長を埋葬した「墳丘墓」が造られるようになってきたのもこの時代。
「クニ」同士の争いも勃発するようになり、集落には防衛のための施設が見られます。
稲作伝来・定住化が進んでからは青銅器の生産も始まったようで、ふいごの羽口など、鋳造に必要なものも出土しています。
吉野ケ里遺跡の集落は特に大きく、「魏志」倭人伝に登場する「邪馬台国」を彷彿とさせますね。
吉野ケ里遺跡の研究
吉野ケ里遺跡が論文で取り扱われ出したのは昭和初期のこと。
大正時代ごろから甕棺や一般の弥生土器の存在が多い佐賀平野東部地域は研究が進められ、七田忠志などがその重要性を指摘していました。
戦後に「三津永田遺跡」が発掘されると、佐賀県は考古学会で大きな注目を集めます。
護岸工事の際に人骨、鉄器、貝製腕輪、ガラス製の玉が発見されると一気に発掘作業が進められ、吉野ケ里遺跡周辺の遺跡がこのあたりの地域における弥生時代の大陸との交流を認識させました。
土地開発とともに遺跡の保護なども進められ、さらに学術調査が進められます。
これらの発掘調査をもとに研究や建物の復元などが行われ、現在のような歴史公園に整備されました。
吉野ケ里遺跡の見どころ
さいごに、吉野ケ里遺跡の見どころについて、ゾーンごとにご紹介していきたいと思います。
入口ゾーン
JR吉野ヶ里公園から入ってすぐのところにある入口ゾーン。
敷地内の施設や吉野ケ里遺跡についての簡単な説明などが紹介されている「ガイダンスルーム」や、遺跡の概要・歴史などをまとめた「蘇る“弥生の都市”」という12分間の映画を見ることができる「シアタールーム」など、観光の前に吉野ケ里遺跡について学ぶことができる施設が充実しているゾーンです。
レストランや売店なども併設されています。
環濠集落ゾーン
実際の発掘現場や復元建物などがある環濠集落ゾーン。
観光のメインとなるゾーンです。
物見櫓、竪穴式住居、高床式建物、集会所、煮炊き屋、倉庫群、祭殿など、さまざまな建物が発掘調査の結果などを元に復元されています。
北墳丘墓では14基の本物の甕棺を見ることができ、事前に問い合わせれば実際の発掘の様子などを見学することも可能です。
「弥生くらし館」には、体験工房、公開作業室などがあり、実際に体験したり見学したりすることによって、より弥生時代や遺跡に対して理解を深めることができるようになっています。
古代の原ゾーン
巨大遊具が設置されている広場やゴルフ場などがある古代の原ゾーン。
子どもが思いっきり遊びまわれる広大な芝生広場が広がっており、複合遊具や滑り台、トランポリンなどが設置されているほか、ビッグボールの貸し出しも行っています。
バーベキューが行えるスペースもあり、幅広い世代が屋外での活動を楽しめるゾーンです。
古代の森ゾーン
古代の植生を再現した「古代植物の森」や古代の人と自然の関わりを体験できる「古代の森体験館」がある古代の森ゾーン。
全長300メートルに渡って約500基の墓列が復元された「甕棺墓列」にも注目です。