美しい自然と名所旧跡が楽しめる栃木県足利市。
なかでも、日本最古の学校と言われている足利学校は、国の史跡にも指定されている人気の観光スポットです。
歴史ある建造物と美しい自然が調和する広大な敷地は散策にぴったり。
足利のまちへ、自然や歴史に触れる旅に出かけてみませんか。
本記事では、日本最古の学校と言われる足利学校の歴史や見どころについてご紹介していきたいと思います。
海外にも紹介された日本で最も古い学校
日本でも最も古い学校であると言われている足利学校。
創建についてはさまざまな説がありますが、応仁の乱などの大きな戦乱も乗り越えて、3000人以上の学生を輩出したと言われています。
戦国時代に日本を訪れたイエズス会の宣教師で、当時の日本についてのさまざまな記録を残したフランシスコ・ザビエルは、「日本国中最も大にして、最も有名な坂東の大学」と紹介しています。
明治時代のはじめに廃校となってしまいますが、敷地内を一般に開放しており、足利を代表する観光スポットとなっています。
江戸時代に建てられた孔子廟や門、庭園など、四季の移ろいと歴史ある建物のコントラストを楽しめる場所です。
足利学校の歴史
足利学校のはじまりには、奈良時代の国学を学ぶ施設が発展したもの、平安時代に活躍した著名な漢学者・小野篁(おののたかむら)の創建、鎌倉時代に足利義兼(よしかね)が子弟教育のために創建したなど、いくつか説がありますが、鎌倉時代にはすでに存在していたものと考えられています。
室町時代の中ごろになると関東管領であった上杉憲実(うえすぎのりざね)が鎌倉から僧を招き、当時ポピュラーなテキストであった四書五経の注釈書を寄進するなど、足利学校の整備を行いました。
「坂東の大学」と呼ばれるまでになった足利学校は多くの学生を輩出しており、なかには琉球から学びに来たという人もいたそうです。
易学・兵学・医学など、実践的な学問も教えていたことから、卒業生が良い待遇で召し抱えられることもあったそうです。
室町時代後期に当たる戦国時代には、イエズス会の宣教師であるフランシスコ・ザビエルも訪れました。
江戸時代に入ると、朱子学に重きを置く幕府の方針もあり、次第に足利学校は衰退しますが、貴重な古典の蔵書や歴史的意義などから多くの知識人が足を運んだそうです。
明治時代に入ってすぐに廃校してしまった足利学校ですが、大正時代に国の史跡に指定されたことから、その史跡としての価値に注目が集まり、建物が再建されるなどの整備が進んで現在は足利を代表する観光地になっています。
足利学校の見どころ
ではさいごに、足利学校の見どころについて見ていきたいと思います。
入徳門
足利学校へと入る際の最初の門。
17世紀中ごろに創建されましたが火災で焼失し、19世紀中ごろに再建され、明治に入って修築されて今に至ります。
門の扁額にある「入徳」の書は、紀伊徳川家11代藩主・徳川斎順(なりゆき)によるもので、国の史跡に指定されています。
学校門
足利学校と言えば真っ先にこの「學校」の扁額が掲げられた門が思い浮かぶのではないでしょうか。
17世紀中ごろに創建された国の史跡で、扁額の書は明の書家・蒋竜渓(しょうりゅうけい)が来日した際に書いたものを、当時の江戸国史館助教授であった狛高庸(こまたかやす)が縮模したものになります。
杏壇門
こちらも17世紀中ごろに創建されたもので、孔子廟に入る際の門。
国の史跡に指定されており、明治時代に起こった火災の痕が今も柱などに見受けられます。
孔子廟
中国明代の聖廟を模したもので、建物の名前は「大成殿」です。
やはり17世紀中ごろの造営で、国の史跡に指定されています。
方丈・書院・庫裡
江戸時代の学校の様子を復元した建物。
当時の建築物が細部まで表現されており見ごたえがあります。
字降松
杏壇門付近にある字降松(かなふりまつ)。
16世紀ごろの足利学校の庠主である九華和尚のころに、この松の木に読めない字や意味の分からない言葉などを結んでおくと翌日には解説が返ってきたことからその名が付いたと言われています。
庭園
北庭園、南庭園とあり、どちらも築山泉水庭園です。
奥まった場所にあり、自給自足の生活をしていた足利学校の学生たちの一面を垣間見ることができる菜園場(さえんば)も興味深いです。
まとめ
足利学校の歴史や見どころについてご紹介しました。
日本一古い学校として、宣教師・フランシスコ・ザビエルを通して海外にも紹介された足利学校。
歴史ある建物や広い庭園からは、昔の人々が切磋琢磨しながら学んでいる様子が浮かぶようです。
周辺にはほかにも足利の歴史を感じられるスポットが点在し、少し足を延ばせば「あしかがフラワーパーク」などの栃木県の定番観光スポットにも行くことができます。
ぜひ歴史と自然が調和した足利のまちに足を運んでみてください。