現存12天守のひとつ!丸亀城の歴史と見どころ

国内旅行情報

現存12天守のひとつ 丸亀城の歴史と見どころ

国内に12しか現存しない木造天守が残る丸亀城。

天守ももちろん見ごたえがあるのですが、丸亀城最大の特徴が高くそびえる石垣。
日本最大の高さを誇り、地上から見るとまさに「城壁」という言い方がふさわしいような迫力に満ちています。

電車やバスでのアクセスも良く、観光しやすい場所にあるのも魅力的です。

本記事では、丸亀城の歴史と見どころについて解説していきたいと思います。

高くそびえる石垣が美しい平山城

「石垣の名城」と呼ばれる丸亀城は、戦国時代後期に築城された輪郭式平山城。

当時の天下人である豊臣秀吉の居城である大阪城をモデルに堅牢な総構えでぐるりと町ごと囲んだ守りの堅いお城です。
「扇の勾配」と呼ばれる美しい傾斜の高石垣と、俗に「らせん式」と呼ばれる大手門から本丸までの複雑な経路の縄張りでさらに守りの強固さを高めています。

国内でも貴重な現存天守は地上3層と石垣の高さに比べると小さく感じてしまいますが、唐破風と千鳥破風が取り入れられた端正な姿をしています。

ここでは、丸亀城の簡単な歴史と、その見どころを中心に解説していきたいと思います。

生駒氏と丸亀城

丸亀城が築かれたのは戦国時代後期のこと。
織田信長や豊臣秀吉に仕えていた生駒氏が、室町幕府管領である細川氏の家臣・奈良氏がかつて治めたという亀山に城を建てたことに始まります。

主君である織田信長や豊臣秀吉が広めた総構えを採用しており、お城だけでなく城下町ごとぐるりと堀で囲った堅牢な城です。

慶長2年(1597年)から始まった築城は、慶長7年(1602年)にはほとんど城郭が完成しました。
完成のめどが立ったのを機に生駒氏は本拠地を高松城に移し、丸亀城には城代をおきます。

ところがそのわずか数年後、江戸幕府が出した「一国一城令」により廃城になってしまいました。
お家騒動により厳しい処分を受けた生駒氏は、寛永17年(1640年)には讃岐の地を離れます。

加藤氏・山崎氏と丸亀城

生駒氏が離れてからしばらくの間、讃岐国は周辺の大名が分割統治を行っていました。
丸亀城を含む西讃岐を治めていたのは伊予大洲藩の加藤氏でした。

寛永18年(1641年)には、肥後天草藩(富岡藩)を治めていた山崎氏が入城します。
廃城になっていた丸亀城を再建し、天守、本丸、高石垣などを築いたのは山崎氏です。

天草の乱後の荒廃した地をうまく納めたことが評価されて西讃岐にやって来た山崎氏ですが、後継者不在のためわずか3代で途絶えてしまいます。

京極氏と丸亀城

万治元年(1658年)、途絶えた山崎氏の代わりに丸亀城に入城したのが京極氏です。
京極氏は、鎌倉末期から南北朝時代にかけて活躍した由緒ある家柄。
以降、京極氏は幕末までこの地を治めました。

明治時代に入り、丸亀城を構成する建物の多くは火災や取り壊しなどで無くなってしまいますが、大正時代には市が三ノ丸から本丸までを管理し、「亀山公園」として一般に公開します。

第二次世界大戦の戦火を免れた丸亀城は、昭和の解体工事を経て今も一部改修工事が行われています。

丸亀城の見どころ

ではさいごに、丸亀城の見どころをご紹介していきたいと思います。

石垣

まずは石垣から。
冒頭でもご紹介した通り、「扇の勾配」と呼ばれる美しい傾斜を描く石垣は日本一の高さを誇ります。

本丸、二ノ丸、三ノ丸を順にぐるぐると囲っている輪郭式平山城なので、曲輪の周りを内堀から石垣でぐるぐると4重に囲っている構造になっており、4段合わせると約60メートルの高さです。
遠くから見てもその圧倒的な高さがわかりますが、中でも三ノ丸の北側にある石垣は20メートルもあり、高さと美しさを兼ね備えた素晴らしい石垣を堪能することができます。

天守までの道中はかなり体力を使いますが、休憩がてら石垣や山の自然を堪能しつつゆっくりと登ってください。

南の山麓では自然石を使った「野面積み」を、三ノ丸の高石垣では石を長方形に加工して長辺と短辺を交互に組み合わせた「算木積み」を見ることができます。

大手一ノ門

「太鼓門」とも呼ばれる城の正門。
重厚な造りになっていて、門の中には城に入ろうとする敵の頭上に石を落として攻撃するための「石落とし」が備わっています。

藩士が太鼓を鳴らして時刻を知らせていたことから「太鼓門」の名が付いたそうで、現在も太古の打ち鳴らし体験も可能です。

天守

日本に12しかない現存天守のひとつ。

地上3層と現存する天守のなかでは最小のものになりますが、柱や梁の質感からは長い歴史を感じることができます。
60メートルの石垣の上に建っているので、城下の様子や瀬戸内海もよく見えます。

二ノ丸の井戸

二ノ丸に残されている井戸は、日本一の深さを誇ることで知られています。

少し怖い逸話も残されています。
この井戸を築いた羽坂重三郎という家臣が、その裏切りを恐れた城主に井戸の底に入っている最中に石を落として殺されたというものです。

絵図では65メートルもの高さがあると記されているそうですが、実際には30メートルほどではないかと言われています。

関連記事

カテゴリー

アーカイブ