山口県南西部に位置する岩国市。
県を代表する観光スポットである錦帯橋があることで有名です。
わずか7年で廃城してしまった吉川氏の居城・岩国城は天守が復元され、今も岩国のシンボルとなっています。
山陽新幹線が通る新岩国駅から錦帯橋まではバスで15分ほど、そこから岩国城まではロープウェイを使って3分ほどと、車が無くても観光ができる利便性の良い立地も魅力的です。
本記事では、岩国城と錦帯橋の歴史や周辺の見どころについて解説していきたいと思います。
山口県を代表する観光スポット・錦帯橋と岩国のシンボル・岩国城
日本三名橋にも数えられ、五連のアーチが美しい錦帯橋。
毎年多くの人が訪れる、山口県を代表する観光スポットです。
四季折々の自然と錦川の清流、そして複雑に組み上げられた橋のコントラストが、美しい景観を作り出しています。
その錦帯橋を見下ろすような場所に建っているのが岩国城。
橋の上からも復元された天守を見ることができます。
岩国城は一国一城令によってわずか7年で廃城を余儀なくされますが、その麓の居館から吉川氏が独立して自治していた岩国のまちには、今も城下町の風情が漂っています。
ここでは、通称・岩国藩と呼ばれるこの地域が辿って生きた歴史を振り返りつつ、その見どころを見ていきたいと思います。
主家・毛利氏を支え続けた吉川氏
「三本の矢」という逸話をご存知でしょうか。
中国地方の覇者であった毛利元就が、臨終に際して3人の息子に語ったと言われているものです。
三兄弟が力を合わせれば、どのような困難にも打ち勝って家を守ることができると教え諭したと言われています。
元就の3人の息子のうち、次男と三男はそれぞれ吉川氏と小早川氏に養子に出ています。
両家は毛利両川と呼ばれ、毛利本家をよく支えました。
関ケ原の戦いで西軍の総大将になった毛利輝元は徳川家康率いる東軍に敗れ、存亡の危機にさらされます。
このときに毛利氏救済のために奔走したのが、両川の片割れである吉川氏。
吉川氏の執り成しにより大幅に領地を減らしながらも長州の地を与えられた毛利氏ですが、吉川氏を正式な大名として扱うことはせず、毛利氏に臣従する立場を取らせます。
不遇な扱いを受けていた面もありましたが、吉川氏は岩国の地を自治し、幕末まで毛利本家を支え続けました。
岩国城廃城の経緯
広島12万石の大名であった吉川氏は、関ヶ原の戦いのあと、周防国・岩国3万石に封じられます。
岩国の地を治めるにあたって、吉川氏は横山の麓に居館を建て、山頂に岩国城を築城しました。
横山の地形と麓を流れる錦川をうまく使った堅牢な城で、非常に守りに優れていたと考えられます。
立派な城を持った吉川氏ですが、完成からわずか7年後、幕府が出した「一国一城令」により、岩国城は麓の居館を残して廃城になってしまいました。
周防国には岩国城しか城がなかったため、幕府を説得することも可能ではあったようです。
理由については、毛利本家が幕府に遠慮したから、岩国藩と同じく長州藩に臣従するかたちを取っていた長府藩も廃城することになったから、など諸説あります。
錦帯橋と岩国藩
錦川を天然の堀に見立てて守りを固めている岩国城ですが、そのせいで城下町と切り離されてしまっているという面もあります。
城下町と城を繋ぐ橋の建設は急務で、早い段階から橋が架けられるものの、何度も流されてしまいます。
3代目藩主・吉川広嘉が「西湖遊覧志」に着想を得たのが今の錦帯橋の基本的なかたち。
4つの橋脚を築き、5つのアーチで繋ぐというものです。
その後も何度か流されてしまいますが、そのたびに工夫が凝らされ、精巧な図面が受け継がれました。
現存する最古の図面は、なんと300年以上前のもの。
平成の架け替え工事を超えた今も、江戸時代の構造を大きく変えることなく、まったく同じ位置に錦帯橋が架かっています。
岩国城・錦帯橋周辺の見どころ
では最後に、岩国城や錦帯橋周辺の見どころをご紹介していきたいと思います。
岩国城
天然の要害をフルに活用した山城である岩国城。
山頂へ登る道には「広い道」と「山道」があるのですが、少し足場は悪いものの石垣などの遺構を堪能できる「山道」がおすすめです。
復元された天守からは錦帯橋も見えます。
錦帯橋
山口県を代表する観光スポットである錦帯橋。
四季の移り変わりと見事な反りの橋が美しい景観を造り出しています。
屋形船に乗って川面から橋を見上げるのもおすすめです。
吉香公園
岩国城が廃城した後も行政機関として機能していた吉川氏の居館があった場所。
「錦雲閣」、「旧目加田住宅」、「香川家長屋門」、「微古館」など、歴史を感じる文化財が点在しています。
柏原美術館
鎌倉時代から江戸時代まで、幅広い時代の武具や美術品を収蔵している美術館。
織田家伝来の甲冑なども展示されており、非常に見ごたえがあります。