戊辰戦争後、江藤新平率いる不平士族の集団である「征韓党」が蜂起した「佐賀の乱」。
その舞台となったのが佐賀城です。
国の重要文化財に指定されている「鯱の門」にはその際に付いた銃弾の跡が残されており、争乱の激しさを今に伝えています。
日本で初めて復元された本丸御殿は、発掘調査などに基づいて再現されており、見ごたえも抜群。
館内の幕末や明治維新に関する資料や映像などの展示も魅力的です。
本記事では、佐賀城の歴史や見どころについてご紹介していきたいと思います。
佐賀藩36万石を治めた鍋島氏の居城
佐賀藩36万石を治めた鍋島氏の居城であった佐賀城。
唐津市にある唐津城とともに、県のシンボルとなっています。
80メートルもの高さがある内堀を持つ平城で、周囲は本丸の一部を除き石垣ではなく土塁で囲まれていたそうです。
天守を含むほとんどの建物は残念ながら残されていませんが、水堀や本丸の石垣、門などが現存しています。
佐賀駅からバス1本でたどり着くことができ、福岡市内からも車で1時間ほどでアクセスできるなど、気軽に観光できる立地も魅力です。
ここでは、佐賀城の歴史を紐解きつつ、その魅力に迫っていきたいと思います。
龍造寺氏と村中城
佐賀城は、平安時代末期に龍造寺村の領主になった人物の子孫が龍造寺氏を名乗り、この地に築いた村中城を前身としています。
室町時代から戦国時代にかけて勢力を伸ばした龍造寺氏は村中城の拡張・整備を続けながら領土を広げていきますが、やがて豊後の大友氏と対立するようになります。
大友氏に攻め入られた龍造寺氏は村中城に篭り、奇襲を仕掛けるなどして見事大友氏を退けます。
その後も大友氏の衰退とともに順調に勢力を伸ばした龍造寺氏でしたが「沖田畷の戦い」で島津氏に主君を打ち取られたのを機に家老の鍋島氏が実権を握るようになりました。
鍋島氏と佐賀城
「関ヶ原の戦い」において西軍に味方したもののうまく立ち回った鍋島氏は徳川氏から佐賀を与えられ、正式に藩主となってこの地を治めるようになりました。
鍋島氏は村中城を大幅に改修して佐賀城を築城。
城を攻められた際にはあえて主要部以外を水に沈めることで侵攻を防ぐように設計されていたことから「沈み城」の異名を持ちます。
佐賀城は何度か大火災に遭っており、再建を繰り返していますが、天守は最初の火災以降再建されることはなかったようです。
「佐賀の乱」と佐賀城
「薩長土肥」の一員として明治維新の立役者になった佐賀藩。
当然明治政府の中枢には元佐賀藩士が多くいたのですが、一方で落ちぶれる士族も多く、生活が苦しくなった士族などは政府に不満を持っていました。
これらの不平士族を束ね、反乱を起こした人物が江藤新平です。
江藤自身は参議にまで出世したエリートだったのですが、征韓論などで政府と対立し、「明治六年の政変」を機に政界から下りてしまいます。
下野した江藤は佐賀で不平士族の反乱があることを聞きつけ、それを抑止するために帰郷。
ところが、江藤は不平士族の集団「征韓党」を率い、首謀者となって「佐賀の乱」を引き起こします。
しかし、佐賀城に籠った政府軍を撃破した「征韓党」は、熊本鎮台や政府遠征軍などによって後退。
江藤も捕らえられてしまいます。
江藤らは本懐を遂げることができませんでしたが、「佐賀の乱」を機に全国の不平士族たちが蜂起。
熊本、福岡、山口、三重と全国で士族が立ち上がり、やがて鹿児島での西南戦争をもって明治政府はやっと内乱を収めます。
「佐賀の乱」によってかなりのダメージを負った佐賀城はほとんどの建物を焼失。
かろうじて残った本丸は、裁判所や中学校、師範学校、測候所、商業高校、小学校などの公的な施設として利用された後、整備されて現在のような歴史資料館になりました。
佐賀城の見どころ
では最後に、佐賀城の見どころについてご紹介していきたいと思います。
本丸御殿
発掘調査や絵図などをもとに一部が復元された佐賀城の本丸御殿は、実は日本で初めて復元された本丸御殿。
忠実に復元された建物の中は資料館になっており、幕末や明治維新を中心に貴重な資料や映像、模型などが展示されています。
鯱の門
国の重要文化財に指定されている鯱の門は、江戸時代から現存する貴重な建造物。
佐賀鍋島藩36万石にふさわしい威厳のある佇まいです。
鯱の門には「佐賀の乱」の際に付いた銃弾の跡が残されているので、ぜひ近づいて見てみてください。
水堀
周囲に松などを植えることによって城が見えないように工夫されている水堀。
幅70メートルもある水堀は迫力があると同時に景観の美しさも生み出しています。
石垣
本丸の一部を覆う石垣。
周囲をほとんど土塁で囲んでいた佐賀城においては貴重な石垣の部分です。
現存する本丸西側の石垣は場所によって積み方が違うことから、何度か改修・修繕されたことがうかがえます。