漆黒の天守閣が印象的な岡山城。
岡山市のシンボルであり、「烏城」と呼ばれることもあります。
令和の大改修を終え、美しく生まれ変わった天守閣は必見です。
天守閣の中は博物館になっており、岡山城の歴史や歴代城主についての展示以外にも、写真撮影スポットや子ども向けの体験コーナーなど、歴史をあまり深く知らない方でも観光を楽しめるように作られています。
一階部分のカフェも人気です。
本記事では、岡山城の歴史を紐解きつつ、その魅力に迫っていきたいと思います。
不等辺五角形の特徴ある城郭
岡山城の天守閣は、不等辺五角形という少し変わった形をしています。
土台とした丘の地形に合わせたからであると言われており、明治維新後もそのまま天守閣が残された稀有なお城で、昭和初期までは図面も残されていました。
しかし、空襲により図面も天守閣も焼失。
1966年に再建され、令和の大改修を経て今に至ります。
岡山市のシンボルともいえる岡山城は、岡山市街地観光の定番スポットです。
特に令和の大改修以降は、国内から海外まで幅広い層に人気を集めています。
お城が辿ってきた歴史や建物の特徴などを知れば、観光は何倍も楽しくなるはず。
ここでは、岡山城が辿ってきた歴史を振り返りながら、岡山城観光に役立つ情報をお届けしていきたいと思います。
備前の梟雄・宇喜多直家
裏切りと暗殺を繰り返し、梟雄とも呼ばれた戦国大名・宇喜多直家。
彼が岡山城(当時は石山城)を手にしたのは元亀元年(1570)のこと。
当時沼城を拠点としていた直家は、家臣に命じて砦ほどの規模であった石山城の改修を行います。
3年後の天正元年(1573)には、石山城に拠点を移し、直家はさらに勢力拡大をはかります。
直家時代の石山城がどのようなものであったのかはよくわかっていませんが、未分化ながらも近世城郭や城下町の整備も行っていたようです。
宇喜多秀家と岡山城
宇喜多直家が石山城の整備途中に亡くなると、嫡男・秀家が家督を継ぎ、築城事業も引き継ぎます。
秀吉から57万石を与えられた秀家は、その大大名と言える禄に相応しい巨大な城を築き始めます。
父・直家の石山城を取り込むようにしてさらに拡張した秀家の岡山城は安土城を模して作ったと言われており、日本でも有数の絢爛豪華な城郭建築であったと言われています。
岡山城の基礎を築いた秀家ですが、関ヶ原の戦いで西軍に着いたことにより、流刑に処されてしまいます。
池田家と岡山城
関ヶ原の戦い後は、小早川秀秋、池田忠継が入城しますが、いずれも数年で亡くなってしまいます。
輝政の三男やその長男を挟んで、最終的には鳥取城主であった池田光正が城主に落ち着きます。
日本三名園のひとつである「後楽園」は、池田時代に出来たもので、今や国内に留まらず世界から称賛される庭園にまでなりました。
その後、明治維新まで池田家が岡山城を代々治めることとなります。
近代以降の岡山城
廃城令により本丸以外のほぼすべての建物を取り壊されてしまった岡山城ですが、天守閣は昭和まで残ります。
しかし、その天守閣も太平洋戦争時の空襲で焼けてしまいます。
戦後になると、旧藩士たちなどの呼びかけから天守閣が再建されました。
鉄筋コンクリート造ではあるものの外見はほぼ忠実に再現されたと言います。
2022年の令和の大改修を経て、今のような黒く光る美しい天守閣になりました。
岡山城の見どころ
さいごに、岡山城の見どころを簡単にご紹介していきたいと思います。
天守閣
令和の大改修を経て、美しく生まれ変わった天守閣。
天守内部の博物館の展示には地元出身の歴史学者・磯田道史が携わっており、城の歴史や有名武将についてわかりやすい解説がなされています。
月見櫓
池田氏の時代の貴重な遺構である月見櫓。
実践的な工夫がしっかりと施されていながら、どこか優雅な造りになっています。
供腰掛
登城した藩士の供廻りが、主人が用事を終えるまで待機した場所を復元したもの。
現在は休憩スペースになっています。
六十一雁木門(ろくじゅういちがんぎもん)
城の裏手の門で、櫓門も供えた実践的な機構。
雁木とは階段のことで、その名の通り61段の階段が続いています。
廊下門と渡り廊下
1966年に再建された廊下門と渡り廊下。
城主の居住スペースと実際に政務を行う建物とを繋ぐ廊下門でした。
門の上に敵を迎え撃つためのスペースが設けられており、搦め手の守りを固めている場所でもあります。
不明門(あかずのもん)
本段の入り口の防御を固めた門。
藩主が暮らした御殿へと続く門で、普段は閉まっていることからその名が付けられました。
石垣
発掘された宇喜多時代の石垣、自然石を用いた日本最大の石垣、小早川時代の石垣…
岡山城にはさまざまな石垣が残されており、時代の変遷を見て取ることができます。
興味のある方は石垣にも注目してみてください。