重要文化財に指定された現存天守―松山城の歴史と見どころ

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重要文化財に指定された現存天守 松山城の歴史と見どころ

国内に12しかない現存天守のひとつを有する松山城。
そのなかでも7つしかない、国の重要文化財に指定されている天守は、姫路城とあわせて2つしか現存しない連立式と呼ばれるかたちをしています。

松山城は、江戸時代に入り城郭建築に制限がかかり大規模なお城を築くのが難しいなか、最後に築城された大天守を含む完全な城郭です。
天守を含む21もの建物が国の重要文化財に指定されており、お城好きの方はもちろん、あまり城郭に詳しくない方も楽しく観光できます。

本記事では、松山城の歴史や見どころについてご紹介していきたいと思います。

現存12天守のひとつであり、重要文化財にも指定されているお城

国の重要文化財に指定されている貴重な現存天守があることで知られる松山城。
愛媛県を舞台にした小説や映画などにもたびたび登場する松山市のシンボルです。

市内中心部にある勝山の山頂に築かれた広大な平山城。
標高は132メートルほどありますが、ロープウェイやリフトを使って眼下の景色を楽しみながら登城できる観光しやすいお城です。

城郭構造や石垣を堪能したい方は徒歩での登城がおすすめ。
多少傾斜を登ることになりますが、20~30分ほどで天守に到達できます。

加藤氏と松山城

松山城を築いたのは、賤ケ岳七本槍のひとりである加藤嘉明です。
譜代の家臣を持たない秀吉が養育したいわゆる子飼いの将のひとりで、秀吉の縁戚でないにも関わらず大出世を果たした数少ない人物。

関ヶ原の戦いにおいて東軍で活躍した嘉明は大幅に加増されて20万石の大名となり、それまで拠点としていた正木城では手狭になると考え、勝山に築いた城が松山城です。
それまで勝山と呼ばれていた一帯を松山と改称したのも彼で、四半世紀以上かけて大規模な城郭の基礎を作り上げました。

嘉明はその後大幅な加増を受け会津に転封。
松山城には蒲生氏が入ります。

余談ですが、嘉明を会津へ推薦したのは彼と犬猿の仲であった藤堂高虎です。
同じ愛媛県内の今治城や宇和島城を築いた築城の名手として知られています。

長年確執があったふたりですが高虎の方は嘉明の能力を認めていたようで、自分が与えられるはずだった会津に嘉明を推薦しました。
その後嘉明は高虎に感謝と謝罪を伝え、和解したそうです。

蒲生氏・松平氏と松山城

断絶した本家の代わりに跡を継いだ蒲生忠知が加藤嘉明と入れ替わりで松山城に入城。
忠知は嘉明の築城事業を引き継いで二ノ丸まで完成させますが、参勤交代の途中に死亡。
蒲生家は断絶してしました。

大洲藩主の加藤泰興らの在番を経て家康の甥である松平定行が入り、以降幕末まで松平氏が松山城を治めることになります。
松平氏は5層あった立派な加藤氏の天守を幕府に遠慮して3層に改築したとされていますが、江戸時代中期に落雷により焼失。

現存している天守は江戸時代末期に築城されたもので、現存している天守のなかで最も新しい天守とされています。

近代に入ると三ノ丸、二ノ丸が相次いで焼失してしまいますが、天守を含む本丸は戦災も潜り抜けて現在も松山のまちを見守っています。

松山城の見どころ

さいごに、松山城の見どころをご紹介していきたいと思います。

天守

貴重な現存天守のひとつである松山城の天守。
小天守が連なる防御に優れた連立型の天守で、同じ形のものを、大きさを変えて積み重ねることによって工期の短縮や工費の節約をはかった層塔型の天守です。
関ヶ原の戦い以降一般化されたこの形式は、この記事でも少し触れた藤堂高虎が編み出したものです。

一ノ門

天守に通じる防御の要となる門。
高麗門の脇を背の高い櫓で固めており、二ノ門との間に枡形と呼ばれる空間を設けた、かなり実戦を想定した造りになっています。

南隅櫓・渡櫓・北隅櫓

高石垣の上に建てられた、南と北の櫓を長い廊下で結んだもの。
廊下になっている渡り櫓は、西側の防御機構としても重要な役割を果たしています。

天神櫓

天守から見て鬼門に当たる北東の方角に築かれた鬼門封じの門。
城郭建築には珍しい寺社建築を取り入れた建造物で、松平氏の祖先にあたる菅原道真を祀っています。

紫竹門

嘉永年間に再建された天守へと続く高麗門。
小天守の下に建てられており、本瓦葺の重厚な造りになっています。

野原櫓

唯一現存している望楼型二重櫓。
1階の天井の梁で2階を支えるスタイルは犬山城の天守と類似しています。
松山城の天守は層塔型ですので、望楼型と層塔型を見比べることができる面白いお城です。

隠門

名前の通り両側の櫓に隠れた死角に位置する門。
大手門から侵入した敵を背後から討つように計算された、防御の要となる門です。

太鼓門

7メートル近い石垣の上に建てられた門。
渡り塀で繋がっている櫓とあわせて非常に防御機構が充実しており、いかに松山城が城攻めを想定して築城されたかがわかります。

石垣

館と天守を石垣で繋ぎ、山の中腹からの侵入が防げるようになっている全国的にも珍しい造りの石垣。
「屏風折の石垣」や「登り石垣」などと呼ばれることもあり、朝鮮出兵の際に築城された城に多く用いられました。

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