熊本のシンボルとして地元の人々から愛されている熊本城。
戦国武将・加藤清正が築いた堅牢なお城で、日本三名城に名前が挙がることもあります。
熊本地震で大きな被害を受け見学できる部分も大幅に減ってしまいましたが、いち早く再建された天守は町の人々に希望を与える復興のシンボルでした。
本記事では、熊本城の歴史と見どころについてご紹介していきたいと思います。
熊本地震で大きな被害を受けた熊本城
2016年4月に発生した熊本地震により深刻な被害を受けた熊本城。
その影響で現在見学できる部分は大幅に減ってしまいましたが、熊本の歴史を分かりやすく解説した天守内部の歴史博物館や、復旧中の櫓の様子、積み直された石垣には圧倒されます。
繁華街のすぐ近くにあるので、熊本観光の際には外せない定番観光スポットです。
ここではその歴史を紐解きつつ、見どころをご紹介していきたいと思います。
加藤氏と熊本城
熊本城の原型となっているのは、「隈本城」と呼ばれるお城です。
詳しい記述は残っていませんが南北朝時代にはすでに存在していたようで、豊臣秀吉による九州征伐を終えた直後には佐々成正が入ります。
しかし成正は思うように肥後国をまとめられず改易処分を受け、加藤清正と小西行長が半国ずつ任されるようになりました。
宇土城を中心に熊本県の南側を治めた小西行長に対して、加藤清正は熊本城を中心に熊本県の北側を治めました。
清正は隈本城があった茶臼山に新たに城を築き、地名も「熊本」と改めました。
加藤氏は関ヶ原の戦いに直接参加したわけではありませんが東軍として九州で活躍し、その後も生き残ります。
しかし、清正の息子の代になって改易処分を受け、熊本藩には細川氏が入りました。
細川氏と熊本城
細川氏は文化人としても知られた戦国大名・細川藤孝(幽斎)の子孫で、歴代城主のなかにも茶道などの芸術に通じた藩主が多くいました。
細川氏は善政を敷き、幕末まで熊本の地を治めます。
熊本城も何度か天災に見舞われましたが、細川氏が補修を行い熊本地震直前まではかなり多くの建物が残っていました。
西南戦争と熊本城
熊本城の最大の特徴は実戦を経験していることです。
築城から約300年の時を超えた西南戦争で初めて実戦を迎えた熊本城はその防衛機能の高さを遺憾なく発揮します。
薩摩軍側の統率が取れていなかったという要因もありますが、籠城する熊本鎮台兵はわずか3500ほどであったにも関わらず、13,000の薩摩軍を退けています。
西郷隆盛の「自分は官軍に負けたのではなく清正公に負けたのだ」という言葉が残されており、いかに熊本城が堅牢な城であったかを証明する出来事となりました。
熊本城の見どころ
ではさいごに、熊本城の見どころをご紹介したいと思います。
天守
震災後いち早く再建された天守。
現在は鉄筋コンクリート製になっていて、中は熊本城や熊本藩主・細川氏の歴史を紹介する歴史博物館になっています。
シンプルながらも各所に工夫が散りばめられた望楼型天守で、築城当初は小さな付け櫓をいくつか持つ複合型天守でしたが、後に小天守が増築されたそうです。
最上階は展望台になっていて、熊本のまちを一望することができます。
宇土櫓
「第三の天守」とも呼ばれるほど立派な造りの宇土櫓。
加藤清正の領地の隣に宇土城を構えていた小西行長の家臣が管理していたことからその名が付いたと言われていますが、定かではありません。
余談ですが、加藤清正と小西行長は記録に残るほど仲が悪かったようです。
こちらも震災によって深刻な被害を受けましたがかなり復旧が進み、現在は解体保存工事の様子公開を月に一度ほど開催しています。
ホームページに公開日時に関する情報が掲載されているので、ぜひ公開している日にちに合わせて観光してください。
石垣
熊本城のシンボルのひとつが「武者返し」や「扇の勾配」とも呼ばれる見事な反りの石垣。
迫力がありながらも緻密な構造をしており、忍びでも登れないと言われるほどの防衛機能はもちろん、見た目も大変美しいです。
JR熊本駅はこの石垣がモチーフになっているそうで、ほかにも熊本銘菓にその名が付けられているものもあります。
闇り通路
本丸御殿の床下にある石垣でできた通路。
本丸御殿は震災の影響で現在は見学できませんが、この闇り(くらがり)通路は通ることが可能です。
御殿建築の中では珍しい造りで、ここにも熊本城の防衛機能の高さが表れています。
長塀
242メートルもの長さを誇る長塀。
南の防衛ラインで、江戸時代の絵図には石を落として塀をよじ登って来る敵を攻撃する「石落とし」も付いていたのだとか。
現在の長塀は西南戦争後に積み直したもので、震災で崩れた部分の復旧も完了しています。
櫓
熊本城は立派な櫓が数多く備えられていることでも知られています。
朝鮮出兵など実践を多く経験した加藤清正だからこそ過剰ともいえる防衛機構を幾重にも重ねた構造にしたのかもしれません。
各所に散りばめられた櫓も天守や宇土櫓と同様に復旧作業が続けられ、監物櫓以外は現在も懸命な作業が行われています。
どの櫓もかなり大きな被害を受けているのですが、なかでも震災当初話題になったのが飯田丸の「奇跡の一本石垣」。
石垣の一部が大きく崩壊したにも関わらず、隅石だけで上の建物を支えていました。