大分の中津城や香川の高松城と並ぶ日本三大水城のひとつとして知られる今治城。
築城の名手・藤堂高虎が築いた強固な名城です。
工業都市としても知られる愛媛県今治市の観光ランドマークとして、市民からも広く愛されています。
海に面した地形をうまく利用し、平城でありながら防御に優れた巧みな縄張りが魅力のお城です。
海と繋がった内堀には海洋生物が生息し、独自の生態系を形成していることでも知られています。
運が良ければサメに出会えることも。
本記事では、今治城の歴史と見どころについてご紹介していきたいと思います。
時代の移り変わりを感じる堅牢な平城
海に面した絶好のロケーションに位置する今治城。
「枡形虎口」や「層塔型天守」など、近世城郭のスタンダードを示した名城です。
それまでのお城の多くが山や丘の地形を利用したものであったのに対して、今治城は平地に建てられた平城。
「吹上城」の異名を持つ海城で、城内に港として機能するような国内最大級の舟入を備えており、大きく瀬戸内海に開かれていました。
中世の実戦に則した防御性の高い側面を保ちつつも、海運や利便性を意識した近世的側面も兼ね備えた、まさに時代を反映したようなお城です。
また、海水が引き込まれた内堀では、独自の生態系が形成されています。
自然科学館も併設されており、魚の生態系に関心がある方も楽しめる観光スポットです。
藤堂氏と今治城
主君を転々としていたことでも知られる藤堂高虎は、外様大名の中では異例なほどの出世を遂げた戦国武将としても有名です。
関ヶ原の戦い前後から徳川家康に仕えていた高虎は、その戦功が認められ宇和島八万石から大幅に加増。
伊予国の約半分に当たる20万石を拝領した高虎は、領地経営の拠点にするべく今治城の築城に取り組みます。
来島海峡の監視も視野に入れられていたこのお城は、船で直接お城に入ることが出来たとの記録も残っているほど、大きく瀬戸内海に開かれていました。
足掛け6年に及んだ築城を終えると、高虎は今治城を養子・高吉に譲り、自身は伊勢国の津城に移ります。
高吉は寛永12年(1635年)に伊賀名張藩へ移封。
今治城には久松松平氏が入ります。
松平氏と今治城
今治城に入った松平定房は、徳川家康の異母弟・松平定勝の五男。
以降明治維新まで久松松平氏が今治の地を治めます。
今治藩は、塩の生産や綿花の栽培で安定した財政を背景に文治政治を展開。
「伊予木綿」はその品質の良さから人気を博しました。
江戸時代に繁栄した伊予の綿布産業は一時期衰退してしまいますが、明治期にタオル産業が即時の発展を遂げ、現在の今治タオルの技術へと繋がっています。
幕末期には譜代大名でありながら新政府軍に与します。
明治維新に入ると、廃藩置県によって今治藩も無くなり、今治城は廃城。
石垣と内堀以外のほとんどの建物が失われてしまいます。
現在の天守は、昭和の時代に鉄筋コンクリートで造られた模擬天守です。
今治城の見どころ
ではさいごに、今治城の見どころについて見ていきたいと思います。
天守
藤堂高虎が築いた日本初の層塔型天守は、丹波亀山城に移築されたため現存していません。
現在の天守は昭和の時代に復元されたもの。
今治城の天守についてはあまり資料がなく、移築した亀山城の資料を基にした層塔型の模擬天守です。
鉄筋コンクリート製の5層6階立てで、中は今治藩に関する展示を行う博物館になっています。
山里櫓
天守の北西に位置する二重櫓。
平成に入ってすぐに再建されたもので、現在は古美術の博物館になっています。
2階建ての櫓門と隣接しており、外敵の侵入をしっかりと防ぐことができる構造です。
鉄御門
史料などに基づいて2007年に木造で復元された鉄御門。
かなり規模の大きなものになっていて、見ごたえがあります。
近世城郭において敵の侵入を阻むための仕掛けである「枡形虎口」と呼ばれる仕掛けはよく見られますが、今治城の鉄御門周辺の枡形虎口はその最古のものと言っても良いでしょう。
層塔型天守をはじめ、藤堂高虎は近世城郭のスタンダードなかたちをいくつも編み出しました。
武具櫓
江戸時代初期に築城されたお城としてはかなり大規模な武具櫓。
こちらも資料をもとに、昭和に再現されたものです。
多聞櫓
昭和に復元された多聞櫓。
現在内部は自然科学館になっています。
小さなお子さんなどと家族で楽しめる科学館です。
御金櫓
二ノ丸の東に位置する二重櫓。
こちらも昭和に再建されたもので、現在内部は現代美術や武具、古文書などが展示されている美術館になっています。
内堀
海と繋がっている内堀。
昔からさまざまな海洋生物が生息しており、運が良ければサメが泳いでいる姿を見ることができます。
淡水が湧き出しているところには淡水魚が生息。
内堀では独特の生態系が形成されています。
9~13メートルの高石垣の上に設けられていることも大きな特徴です。