福井市の東部に位置する一乗谷。
かつてその地を治めた朝倉氏が築いた一乗谷城の遺構がほとんどそのまま残っている、全国的にも珍しい場所です。
城郭の真骨頂ともいえる山城の大規模な遺跡を堪能できるだけでなく、あまり城郭や歴史に詳しくない人でも、戦国時代の城下町の様子が復元された「復原町並」は一見の価値あり。
当時の人々の生活を垣間見ることができるだけでなく、自身も着物を着て散策できるようになっており、忠実に当時の様子が再現された町並はテーマパークのようです。
本記事では、一乗谷城の歴史や見どころについて解説していきたいと思います。
城下町や建物が復元された一乗谷城
戦国時代には隆盛を誇り、越前の地を治めていた朝倉氏。
織田信長が攻め込んだことによって一帯は灰と化してしまいましたが、半世紀以上の発掘調査の結果、城郭や城下町の様子がほかに類を見ないくらいはっきりとわかるようになりました。
江戸時代の城下町が残っている場所は全国各地にありますが、戦国時代の城下町がどのようなものであったのかを知っている方は少ないのではないでしょうか。
一乗谷城では、長年の発掘調査をもとにして在りし日の城下町や武家屋敷がかなり忠実に再現され、寺院跡や庭園も見ることができます。
城郭に関しても、周囲の地形をフルに活用した山城を存分に楽しめるように遺構が整備されており、城の構造をほとんどすべてそのまま見ることができる貴重な場所です。
ここでは、一乗谷城と越前朝倉氏の歴史や復元された城下町・建物についてご紹介していきたいと思います。
最初期の戦国大名・越前朝倉氏
まずは一乗谷城と越前の地を治めた朝倉氏の歴史を見ていきましょう。
越前朝倉氏は、平安時代までは越前ではなく但馬国の養父郡朝倉荘にいた武士であると言われています。
諸説ありますが、鎌倉幕府を倒そうとする足利尊氏の挙兵に従った斯波高経に協力する形で、但馬国の荘園整理を行っていた朝倉氏も討幕に関わったことが越前朝倉氏の始まりです。
討幕の際の功績が認められた斯波高経は越前国の守護に任じられ、それに付き従って朝倉広景も越前に入りました。
ここでは越前朝倉氏の初代を広景とすることにします。
2代・高景の時代になると、斯波は幕府との対立の末失脚して越前を追われ、幕府側に付いていた朝倉氏が越前の7か所の地頭職を任されます。
3代・氏景の時代になると斯波は越前の守護に返り咲き、朝倉氏は再びそこに臣従することになりますが、勢力の拡大を続け、やがて甲斐の武田家などと同様に斯波氏の守護代に任命されました。
戦国時代にと通入試、下剋上を果たしたのは、7代・孝景の時代。
越前の国を統一し、北陸の一大勢力を築き上げます。
文化の政変や応仁の乱を経て、朝倉氏も斯波氏も混乱を極め複雑な状態が続きますが、その気に乗じて孝景は着実に越前国を手中に収め、日本初とも言われる殿語句大名になりました。
越前朝倉氏の盛衰
朝倉氏がそれまでの拠点である黒丸館から一乗谷に居館を移したのは、応仁の乱の直後あたりであろうと言われています。
一乗谷は東西を高い山に挟まれた天然の要害で、南北にも城下町ごと土塁や石垣を施し、まさに鉄壁の守りを誇る堅牢な城塞都市でした。
越前朝倉氏の隆盛とともに城下町も栄え、応仁の乱から逃れてきた京の文化人を多数受け入れたことから、「北の京」と呼ばれるほどの華やかな文化が育まれました。
そこからしばらくは斯波氏との争いも続きますが、9代・貞景の時代には幕府の直臣として認められ、栄華を極めるようになります。
10代・孝景(先ほど登場した7代目とはもちろん別人です)の時代には守護と同等に扱われるなど、かなり地位が向上。
そして越前朝倉家さいごの当主・義景の時代へ。
足利義明が敷いた織田信長包囲網に加担した義景は姉川の戦いに敗れ、同盟国の浅井氏も信長に滅ぼされ、ついに追い詰められます。
わずかな手勢で一乗谷を守ることは難しいと判断した義景は一族の朝倉景鏡が守る大野城へ向かうものの、途中で裏切りに遭い、自害に追い込まれました。
一族も信長の臣下に殺害され、越前朝倉氏はここに滅びることとなります。
復元された城下町・建物
さいごに、観光の目玉ともいえる「復原町並」や山城の遺構をご紹介したいと思います。
半世紀にわたる発掘調査をもとに、当時の町人の生活や武家屋敷を忠実に再現した「復原町並」。
映画のセットのような街並みには、当時の人々に扮した人々がいたるところにおり、本当にタイムスリップしたかのような気分を味わえます。
家屋の中には当時の建具などの展示もなされており、見ごたえも十分。
今は新型コロナウイルスの影響で行われていませんが、有料でお茶を飲めるところもあったようです。
一乗谷城一帯は国の特別史跡になっており、城郭が丸ごと整えて残されており、周りに遮るものがないというのも魅力のひとつです。
屋敷跡などはその上に新たに建物が建てられることなく残されているため実際の広さを体感することができ、いたるところに復元された門、庭園、建物があります。
なかなかに広大な敷地なので計画を持って見学しなければ体力が持ちませんので、ホームページなどで見学コースを確認しておくと良いかもしれませんね。