広島駅からほど近い場所にある広島城。
山城や平山城とは異なり平地に建てられた平城で、上り下りが少なくスムーズに観光を楽しむことができます。
一般に平城は防御力が防御の点において劣ると言われていますが、戦乱の世が落ち着いた時代に建てられた代表的な近世城郭である広島城は、まさに平和な時代を象徴する城です。
本記事では、広島城の歴史や見どころについてご紹介していきたいと思います。
「広島カープ」の由来にもなったまちのシンボル
真っ赤なイメージカラーが印象的な球団である「広島カープ」。
どうしてシンボルが「カープ」、すなわち鯉なのか、疑問に思ったことはないでしょうか。
昔から広島のシンボルとして親しまれてきた広島城は、「鯉城(りじょう)」と呼ばれることもあります。
広島城の堀には鯉がたくさんいたから、広島城周辺が己斐浦(こいのうら)と呼ばれていたから、など諸説ありますが、広島城は市民から「鯉城」と呼ばれていました。
そのため、広島の球団は広島城の別名から「鯉」を取って、「広島カープ」としたのです。
広島城と毛利輝元
広島城を築城したのは、毛利家を中国の覇者にまでのし上げた毛利元就の孫・輝元です。
本能寺の変の直前まで織田信長の配下にいた秀吉と交戦していた輝元は、中国大返しの道を急ぐ秀吉と講和を結びます。
その後見事に明智光秀を討った秀吉は順調に勢力を拡大し、輝元も秀吉のもとに従うようになりました。
秀吉が天下を治めると輝元は「五大老」の一員となり、政権の中でも重きを置くようになります。
秀吉のもとで聚楽第などの近世城郭を目の当たりにした輝元は、居城の郡山城から拠点を移し、新たな城を築こうと考えます。
信長の安土城から秀吉が受け継ぎ広めた近世城郭は、防御要塞としてだけでなく城下町と一体化し、権威の象徴や政庁としての役割に重点を置いた城郭。
輝元は当時「五箇」と呼ばれていた場所を「広島」と改め、そこに巨大な平城を築きます。
完成した広島城を見た秀吉が「聚楽第にも劣らない」と称賛したほどの見事な城でした。
江戸時代の広島城
関ヶ原の戦いで総大将を務めた毛利輝元は大きく減封され、山口県の岩国へ国替えされます。
次に広島城に入ったのは、賤ケ岳七本槍のひとりである福島正則。
城下町の整備や領内の検知など、精力的に領地経営を行いましたが、幕府に十分な届け出をせずお城を回収したことから、改易されてしまいました。
正則が幼少期から秀吉に仕えていたことから、警戒されていたためではないかとの見方もあります。
このあと幕末まで広島城を治めたのが浅野氏です。
浅野氏の時代には城郭を大きく改修・改築することはなかったようですが、修復などの記録は残されています。
幕末の戦乱に直接巻き込まれることはなかった広島城ですが、第二次長州征討の際には幕府の最前線基地が置かれました。
広島城と原爆
明治維新後、軍用地になっていた広島城ですが、天守などのいくつかの建物は昭和初期まで残されていました。
爆心地から1000メートルほど離れていた広島城は、軍の建物も含めて木造のものが多かったためほとんど全焼。
そこにいた兵士も1万人ほどが犠牲になっています。
広島の惨状をいち早く外部に伝えたのは、本丸内の軍施設に学徒動員されていた女生徒です。
彼女は中国地方の通信の要でもあった半地下の防空作戦室から、広島が新型爆弾で全滅したと伝えました。
その後、広島城は広島の復興とともに鉄筋コンクリートで天守が再建され、庭園なども整備されて今に至ります。
広島城の見どころ
では最後に、広島城の見どころについてご紹介していきたいと思います。
天守
昭和初期までは現存していましたが、原爆投下により倒壊してしまった天守。
複合連立型の天守は五層もあり、国内でも有数の規模を誇っています。
原爆の爆風により倒壊してしまった天守ですが燃えてはおらず、崩れた木材などは建具や燃料などに使用され、戦後の市民の生活を支えました。
現在は外観がコンクリートで復元され、中は歴史博物館になっています。
二ノ丸
本丸の南方にある小さい馬出(うまだし)構造の区画。
馬出とは、城の出入り口を守り、出撃の拠点となる空間のこと。
二ノ丸の中には、表御門、平櫓、多聞櫓、太鼓櫓が復元されており、一般に公開されています。
南小天守・東小天守
五層の天守の南側と東側に築かれていた三層の小天守。
これら三つは廊下で繋がれ、壮大な規模であったと考えられています。
旧天守の礎石
天守を再建する際に、もともとあった天守の礎石を移動させたもの。
礎石とは柱などを建てる際の土台のようなもの。
今も天守台に埋もれている礎石の位置には一段低い石が置かれています。
本丸上段
かつて藩政を行う役所と藩主の居住スペースを兼ねた本丸御殿が建っていた場所。
明治時代に入ると軍の拠点となり、広島鎮台司令部が建てられ、のちに第五師団司令部庁舎となりました。
日清戦争の際には明治天皇が入り、広島大本営となった場所でもあります。
本丸下段
馬場が設けられ、土蔵が並んでいた場所。
明治時代には第五師団関連の建物が建ち並んでいました。
福島正則の石垣
城内の石垣の中には、積まれている石の刻印から福島正則の時代に築かれたのではないかと考えられている石垣が散見されます。
正則が幕府に断ることなく石垣を補修し、その後崩したのであろうとみられる崩れかけた石垣も残されています。
中御門跡
原爆が投下された際の火災で炎上してしまった中御門。
その周囲の石垣の石は、熱で赤く焼けてひび割れています。
きれいに再建された建物も多い広島城ですが、原爆の爪痕も残されているのです。