日本一堅牢な城とも言われている月山富田城。
完璧なほどの防御機能を備えた屈指の名城で、お城が好きな方にはたまらない魅力が詰まっています。
一般的に防御が優れていると言われる山城の中でも随一の難攻不落の城です。
晩秋から早春にかけて見られる雲海も魅力のひとつ。
四季の移り変わりをダイレクトに感じることができるのも山城の魅力です。
本記事では、月山富田城の歴史や見どころについてご紹介していきたいと思います。
難攻不落の城・月山富田城
標高190メートルの月山から飯梨川に向かって伸びる巨大城郭・月山富田城。
地形をフルに活用した秀逸な山城で、何度も攻められたにも関わらず一度も落城することはなかった難攻不落の城です。
戦国時代を代表する堅牢な中世城郭は、関ヶ原の戦いののち堀尾氏が拠点を松江城に移すまで、出雲国の中心として栄えました。
ここでは、山城の魅力が詰まった月山富田城を楽しめるよう、その歴史や見どころを分かりやすく解説していきたいと思います。
戦国乱世と月山富田城
月山富田城は、12世紀に佐々木義清が築城したと言われています。
菅谷口、御子守口、塩谷口の3つの入り口からしか攻め入ることが出来ず、一度も落城したことの無い難攻不落の要塞です。
応仁の乱の前には尼子氏が守護代を引き継いでいたと言われており、戦国乱世のなかで月山富田城は幾度も歴史的な戦いの舞台となります。
大内義隆による出雲攻め、毛利氏による包囲、尼子氏による奪還作戦など、さまざまな歴史に残る城攻めが行われましたが、いずれも落城には至りませんでした。
その後毛利氏、末次氏と城主が変わり、毛利両川の片割れ・吉川元春の息子・広家が入城します。
吉川氏と月山富田城
吉川広家は豊臣政権のもと順調に活躍し、大きな存在感を見せます。
朝鮮出兵などにも加わりますが、その間に月山富田城を少しずつ改修・補強していったようです。
やがて関ヶ原の戦いで東軍西軍が分かれるということになると、広家は主家・毛利家存続のために東軍に内通します。
現在では、関ヶ原の戦いは東軍の圧勝であったかのように描かれることが多いですが、当時はなかなか戦況の読みにくい、まさに天下分け目の戦いでした。
広家は西軍にありつつも何も行動を起こさないことを東軍に約束することで、主家・毛利家と自らの家を確実に守ろうとしたのです。
関ヶ原の戦いは東軍が勝利し、毛利家と吉川家は無事明治時代まで主従のような形で生き残ります。
吉川氏は岩国へ転封され、月山富田城を離れました。
戦国時代の終わりと月山富田城
関ヶ原の戦いが東軍の勝利に終わると、出雲・隠岐の一帯は堀尾氏が治めるようになります。
堀尾氏はいったん月山富田城に入りますが、やがて利便性の良い場所に松江城を築き、そちらへ拠点を移します。
戦国乱世では強みであった山城の城郭要塞は、行政の拠点を置くにはあまりにも不便でした。
大きな戦いが終わり平和な時代が訪れると、お城に求められる役割も大きく変わってきます。
戦乱の世で活躍した巨大城郭は、お城がより行政機関としての機能を求められる太平の世においては淘汰され、やがて一国一城令とともに廃城になりました。
月山富田城の見どころ
ではさいごに、月山富田城の見どころについて見ていきたいと思います。
千畳平
城郭の最下層に位置する曲輪。
斜面には大規模な石垣がそびえ、発掘調査から張り出しには櫓が建っていたと考えられています。
太鼓壇
太鼓を打ち鳴らして時間を知らせていた場所。
戦時にはここから家臣に合図を飛ばしていたと考えられます。
現在は月山富田城で活躍した武将・山中鹿之助の銅像が立っています。
馬乗馬場
幅10~20メートル、長さ約140メートルの北西に伸びる細長い曲輪。
ここで馬の訓練をしていたと考えられています。
奥書院
太鼓壇と花ノ壇のあいだにある曲輪。
書院造の建物があったと考えられています。
花ノ壇
掘立柱の建物の痕跡が残っている場所。
当時は侍所として使われていたようで、現在は一部が復元され休憩施設となっています。
山中御殿平
山の中腹に位置し、城主の居館があったと考えられている曲輪。
周りをぐるりと石垣に囲まれており、かなり重要な場所であったことがうかがえます。
大土塁
山中御殿平の西側に位置する、高さ約7メートル、長さ約130メートルの巨大な大土塁。
その外側には、幅約10メートル、深さ約5メートルの大規模な空堀も築かれています。
二ノ丸・三ノ丸
険しい山道であるうえ、左右の曲輪からも攻撃が仕掛けられるようになっている月山富田城が難攻不落たる所以・七曲りを超えると、三ノ丸、二ノ丸と続きます。
三ノ丸は吉川時代につくられたと見られています。
本丸
駐車場から本丸までは片道30分ほど。
途中道が険しい場所もありますので、動きやすく安全な服装で水分補給を忘れずに登城しましょう。
本丸には山中鹿之助の記念碑があり、奥には「出雲国たたら風土記」に記載のある勝日高守神社があります。