福岡市の中心部にある福岡城跡。
繁華街からのアクセスも良いことから、多くの観光客が訪れます。
かつて九州屈指の規模を誇った名城で、その縄張りや石垣がほとんどそのまま残されている貴重な史跡です。
同じ九州にある名城・熊本城を築城した加藤清正をして落城には相当な時間がかかるだろうと言わしめた堅固なお城でありながら、「舞鶴城」の異名を持つ端正な姿をしていました。
本記事では、福岡城の歴史や見どころについてご紹介していきたいと思います。
舞鶴城の異名を持つ黒田氏の居城
海沿いから見上げると鶴が羽を広げたように見えることから「舞鶴城」とも呼ばれる福岡城。
地形をうまく活用した守りの堅さを誇りながら、海を利用した交易や城下町の発展なども考慮された巨大な平山城で、規模・機能ともに福岡藩52万石にふさわしいお城だと言えます。
初代福岡藩主・黒田長政が築城して以降、福岡藩主・黒田氏が代々治めており、古くから栄えていた商人のまち・博多に対して、武家のまち・福岡の中心的な存在でした。
ここでは、福岡城の歴史を紐解きつつ、その魅力に迫っていきたいと思います。
古代から大陸との交易が盛んであった福岡
古くから大陸との交易の窓口として機能してきた福岡は、日本書紀にも「筑紫大宰(つくしのおおみこともち)」という官職があり、都から人が派遣されていたことが記されています。
平安時代に外国の使節や商人たちをもてなすための迎賓館として建てられたのが鴻臚館(こうろかん)と呼ばれるもので、福岡のほかに平安京や難波にもありました。
福岡城はこの鴻臚館があった場所に築城されており、現在も発掘調査が進んでいます。
立花氏・小早川氏と名島城
福岡城の前身となった名島城が築城されたのは室町時代末期のこと。
大友氏の臣下であった立花氏が立花山城の出城として築いたもので、現在の福岡市東区のあたりにあったそうです。
戦国時代に入ると九州でも争乱が巻き起こり、博多周辺も例外ではなかったのですが、秀吉の命により石田三成や黒田如水(初代藩主・黒田長政の父)によって、まちの整備や周辺豪族の鎮静化が図られます。
いわゆる「太閤町割り」です。
無事に九州を平定した秀吉は、この地を小早川氏に与え、名島城には小早川隆景が入ります。
隆景亡き後は養子の小早川秀秋が入りますが、関ヶ原の戦いののち岡山に転封となりました。
黒田氏と福岡城
関ヶ原の戦いで豊臣恩顧の諸将を味方に付けるなど奔走した黒田長政は、その功績が認められ、筑前50石を賜ります。
長政ははじめ名島城を居城としますが、城下町を広げるにはやや手狭であるとし、福岡城の築城をはじめました。
このとき、「福崎」と呼ばれていたこの土地を、黒田家ゆかりの備前国邑久郡福岡にちなんで「福岡」と改称しています。
のちに52万石にまで加増された福岡藩は、幕末まで代々黒田家が治めました。
明治に入り、廃城になった福岡城は建物の多くを失いますが、縄張りや石垣はほとんど当時のまま残されています。
福岡城の見どころ
では最後に、福岡城の見どころについてご紹介していきたいと思います。
上之橋御門跡・下之橋御門
東側に位置する藩主が参勤交代の際に用いる格式の高い上之橋御門と、西側に位置する日常的に出入りがあった下之橋御門。
ともに当時の門は現存しませんが、下之橋御門は2008年に復元されました。
東御門跡
二ノ丸に入るための門があった場所。
周囲の石垣には巨大な鏡石があるのでそちらにも注目です。
表御門跡
本丸に入るための門があった場所。
大正時代に黒田家菩提寺の崇福寺に移築され、現在も山門として利用されています。
天守台
大・中・小の3つの天守台が残されていますが、絵図などには天守が描かれていません。
近年天守の存在をほのめかす文献が発見されましたが、その存在はいまだに定かではありません。
福岡のまちや博多湾を一望できる見晴らしの良い天守台は、現在は展望台になっています。
多聞櫓
二ノ丸の南郭にある多聞櫓。
江戸時代から現存する唯一の建造物で、現在残っている平櫓は嘉永年間に建て替えられたもの。
石落としや鉄砲狭間などが備えられた実践的な造りで、期間限定で一般公開されていることもあります。
名島門
福岡城の前身である名島城の脇門であったもの。
福岡城に移る際に家臣に提げ渡された、福岡市内では現存する数少ない武家屋敷の門です。
旧母里太兵衛邸長屋門
黒田二十四騎のひとり・母里太兵衛の屋敷にあった門を移築したもの。
彼は黒田節のモデルになったことでも知られています。
(伝)潮見櫓
大正時代に旧黒田家別邸に移築され、その後現在の場所に移された櫓。
潮見櫓と伝えられてきましたが実際の潮見櫓は別にあると判明し、このような呼称になりました。
本来の潮見櫓は現在復元事業が進められているそうです。
鴻臚館跡展示館
古代、大陸との交易の拠点であった福岡。
大陸からの使節や商人たちをもてなすための鴻臚館が発掘された当時のまま残されており、遺構や出土品、復元された建物などを見ることができます。