「城が水没する」というのは、なかなかに想像が難しい事象です。
中国攻めの際に秀吉が水攻めを行ったことで有名な備中高松城。
実は大陸の方で先例があると言われているのですが、それを知識として知っていても実際に行うのは途方もないことのように思えます。
水攻めという奇策を用いて城を攻めただけでなく、本能寺の変を知った秀吉が中国大返しを決心した歴史的な瞬間の舞台でもあるお城です。
本記事では、備中高松城の歴史やその見どころをご紹介していきたいと思います。
日本史上まれにみる水攻めが行われたお城
日本史上数少ない水攻めが行われた城のひとつである備中高松城。
大きな池の中にポツンと城が孤立しているさまを頭の中で思い描くのはちょっと大変ですが、ざっくりと言うとそのような状態を人工的に作り出すのが水攻めです。
地形条件や気候条件など、偶然も重なって十分成功したと言える備中高松城の水攻めは、これより後に行われた忍城の水攻めの失敗などを考えると、かなり運も味方に付けた城攻めであるかもしれません。
また、備中高松城攻めの最中に主君・織田信長の死を知った秀吉が明智光秀を討つことを決意するシーンはあまりにも有名。
さまざまな意味で日本史に残る城攻めの舞台となったお城です。
境目七城のひとつである重要な拠点
備中高松城は、中国地方を制覇しようとする秀吉率いる織田勢と、それを迎え撃つ毛利勢の境目にあった戦略上重要な七つの城・通称「境目七城」のひとつで、両軍にとって確実に落としたい、あるいは確実に守り抜きたいラインでした。
織田勢は調略によって城主・清水宗治の離反を誘いますが、毛利勢に忠誠を誓う宗治はこれに応じず、戦いの火蓋が切って落とされます。
戦国末期に築かれた平城である備中高松城は、周りを沼地に囲まれ、かなり攻めにくい城でした。
手を焼いた織田勢は、ついに水攻めという奇策に打って出ます。
あまり日本史の中では出てこない水攻めですが、城を取り囲んで相手方の降伏を待つ兵糧攻めを得意とする秀吉は、兵糧攻めの一種である水攻めも何度か行っています。
秀吉は宗治の降伏には時間がかかると読み、その間に織田信長直々に中国戦線へ繰り出してほしいと願い出ました。
信長は秀吉と同じく家臣の明智光秀に先に援軍に行くように伝え、自らも少ない手勢で中国地方へ向けて出発します。
本能寺の変と中国大返し
順調にことが進んでいるかに見えた備中高松城攻めですが、ここで日本史における大きなミステリーが立て続けに起こります。
まずは本能寺の変。
織田信長が重臣・明智光秀の謀反に遭い、寺とともに焼かれた有名な事件です。
そもそもなぜ明智光秀は謀反を起こしたのか、なぜ信長は少ない手勢しか引き連れていなかったのか、信長の遺体はどこへ行ったのか、未だに謎に包まれた大事件は、やがて水攻めの最中の秀吉の耳にも入ります。
信長の死を知った秀吉は深く嘆き悲しみ、光秀を討つことを決意する、というのが通説。
ここでもうひとつのミステリーである中国大返しが行われるのですが、如何せんその場で思い立って行動したにしては進軍期間が短すぎます。
秀吉は本能寺の変を事前に知っていたのではないかとの説があるのはこのためで、毛利勢との講和と清水宗治の降伏は何とか話をまとめられたとしても、行軍に必要な兵糧などを準備することを考えると、いくら何でも早すぎるのです。
日本史の大事件に巻き込まれた備中高松城はやや強引に講和が持ち込まれ、城主・清水宗治はすべての責任を持って自刃し、城は解放されました。
備中高松城とその周辺の見どころ
では最後に、備中高松城址やその周辺の見どころについてご紹介したいと思います。
備中高松城址
備中高松城は、残念ながらほとんど遺構が残っていません。
本丸や二ノ丸があったあたりに高低差があるものの、痕跡はほとんどなくなっており、城の中心部は「備中高松城址公園」として整備されています。
高松城址公園資料館
2023年にオープンした現代的な建物の資料館。
備中高松城の戦いの様子や、城主・清水宗治に関する展示が行われています。
清水宗治の首塚・胴塚
備中高松城址公園の周辺には、清水宗治の首塚や胴塚が点在しています。
彼の自刃の様子は立派なものであると後世に伝わるほど潔いものであったそうです。
宇喜多忠家本陣跡
備中高松城攻めに参加した宇喜多忠家の本陣跡。
城の北西に位置する高台に陣を構えており、実際にそこに立って見ると備中高松城からかなり近い場所に陣取っていたことがわかります。
羽柴秀吉本陣跡
備中高松城攻めを主導した羽柴秀吉の本陣跡。
この場所で秀吉は本能寺の変のことを知り、織田信長の弔い合戦をするべく中国大返しを決意したと言われています。
蛙ヶ鼻築堤跡
幅24メートルほどの堤防の跡が発掘された場所。
備中高松城を水没させるための堤防の一部があったとされていますが、実際の堤防の高さなどはよくわかっていません。
水攻め足守川 取水口
ここで足守川をせき止め、城を水没させたと言われています。
計画の段階ではもう一つ取水口を設ける予定であったようですが、大雨によりこの部分だけで城は十分水に浸かりました。